ハレ晴れゆかい〜古泉アレンジバージョン〜

あのスローなテンポがたまりません



 先ほどまでの近所迷惑なまでの音量(とりあえずコンピ研の連中は諦めているらしいが)で音楽が鳴らされていた室内は、今は鳴りを潜め、しんと静まり返っていた。
 聞こえてくるのは、彼の呼吸音だけだ。床に寝転んではいるが、寝ているわけではないので、静かな吐息のような呼吸の音。
 涼宮さんがこの部室から立ち去ると、いつもここは一気に静寂な空間になるのだ。
 今、この部屋にいるのは、僕と彼だけ。彼女は図らずも、僕にそんな計らいをしてしまった。僕の気持ちなんてわかる筈もないけれど、これは僕にとってご褒美のようなものだ。
 隣に彼がいる。
「……汗かいていらっしゃるんでしょ?こんなことろで寝ていたら、冷えて風邪をひいてしまいます」
 二人きりの空間が嬉しいくせに、僕の口は僕の気持ちを裏切る。
「まだ、身体がぎしぎしいって動かんのだ。もう少し休ませろ」
「仕方が無いですね」
 この人は苦手なものも涼宮さんの命令ならば、口ではなんと言おうとも従ってしまう。こんなにダンスの練習をして、身体が動かなくなるくらい踊って、それでも彼は涼宮さんのために行動をするのだ。
 本当に…、この人は、いや、彼女が。
 憎らしい。
 いやな感情がぐらりと自分の心に湧き上がるのを感じて、僕はそっと苦笑した。
 折角、二人きりの空間だというのに、嫌な気分を持ち込むのは勿体無い。今は、彼女のことを忘れていたいと思った。
 隣にいる彼のことだけを、一心に考えていたかったんだ。
 望まないけれど考えていたい。
 僕は、この瞬間、彼以外のことを考えるのを放棄する。
 耳に入るのは彼の吐息。感じる温度は隣に寝転ぶ、彼の体温。遠くで聞こえる校内の音ですら聞きたくなくて、僕は思わず先ほど何十回も聞いていた歌を口ずさんでしまっていた。
 耳に残っている曲は、特に覚えようとしていたわけではなかったのだが、完全に僕の脳に刷り込まれてしまったみたいだ。歌い出した僕に気がついて、彼が目を瞑ったまま問いかけてくる。
「……なあ、それって」
「なんだか、耳に残ってしまいましたね」
「歌詞が違うんじゃないか?」
 ダンスで使っていた曲には歌は入っていなかったが、本来は歌詞がついている。でも、脳みそに刷り込まれているとはいえ、あの能天気な歌を口ずさむ気にはなれなくて、好き勝手な歌詞をつけて歌ったのだ。
「ふふ、少し歌詞を変えてみました」
 彼が呆れた調子で呟いた。
「よく咄嗟に…。まったく、才能の無駄遣いだ」
「口を閉ざしましょう」
「いや、別に、いい…。俺は、おまえの声は、嫌い、じゃ、な、…い」
 ふわりと欠伸を一つして、彼はことんと眠りに落ちてしまった。
「……」
 ひどい!
 次の瞬間に、僕はそう思った。
 ひどい、ひどい。唐突にそんな言葉を吐くだなんて!しかも、言った後は置き去りですか?
 「嫌いじゃない」と言われて、僕の心臓の音は大きく跳ね上がってしまったというのに。彼はすうすうと寝息をたてて、僕のことをこの空間に一人置いてけぼりにした。
 もうこれ以上、戯れに口ずさむこともできないではないか。
 これは、僕が彼の目の前で歌を歌うことができなくなってしまった瞬間だった。僕はきっと歌を歌うということで、彼の微かな好意を得ようと無駄な努力をしてしまうだろうから。
 もう、僕は彼の目の前で歌なんか歌えない…。
「はあっ…」
 顔が赤くなっている自分を自覚して、体育座りの状態で膝に顔を埋めた。今、ほんの少しでも彼にこんな顔を見られたら、きっと僕の感情が彼にばれてしまう。いとも簡単にだ。
 大げさにならないように何度も深呼吸をして、ようやくいつもの笑みを浮かべられるようにまで復活した。膝を抱えていた指を外し、大きく「はあ」と最後のため息をつきながら天井を仰ぎ見る。
 何もない天井を見て、冷静な頭を取り戻す。
 まったく、やれやれですよ。彼が寝ていて良かった。

 だが、その行為が間違いだった。

 大きなため息ではない。膝を抱えていた指を外して、身体を支えるためにやや後方の床に手をついたのが、失敗した。

 僕の指先に、寝転んでいた彼の指先が当たった。
 しかも、しかもだ。
 寝ぼけた彼が、きゅっと僕の指先を掴んだ。
 熱い。
 自分の指が?彼の指が?…自分の顔が?

「…もう、だめだ」
 顔が赤くなってくるのを、僕は今度はうまく抑えることができない。一ミリだって身体を動かせないまま、彼が起きるまで僕は握られた指を外すこともできず、顔を赤らめたままずっとこの静かな教室で彼の寝息と、自分のうるさいほどの心臓の音だけを聞いていた。