ハレ晴れゆかい〜マジでキスする五秒前〜


 疲れたな、と横になっていると、古泉の歌声が聞こえてきた。それは俺を先ほどまで散々悩ませてくれた曲だったのだが、原曲よりも幾分スローなテンポで歌われるそれは、何だか心地よくて俺はそのまま眠りに落ちてしまったようだ。
 古泉の声が心地いいだなんて、俺はよっぽど疲れていたに違いない。
 どれだけ寝ていたのか、眠りに落ち込んだ瞬間と同じように、すうっと俺の意識が浮上した。それほど長い時間ではないだろう。
 俺は、寝ている間に何かをぎゅっと握り締めていたようだ。まだはっきりしない頭のままで、ぼんやりと自分の左手を見る。
 堅い感触と、熱いそれ。
 …シャミの、尻尾か?
 それにしても毛がないな、とやはりまだ頭をぼんやりさせながら目の前のそれを薄目がちにじっと見る。

!?

 それが何だかわかった瞬間に、俺は、ぎゃあっ!と叫んだ。いや、口には出さず頭の中でだけだ。
 俺の指がぎゅっと握り締めているのは、人間の指だった。
 勿論、猟奇な話しではないので、その先には腕がついていて、更にその持ち主が俺の隣に座り込んでいる。
 俺は、どういうわけだか小泉の指を、後生大事に握り締めていたのだ。
 古泉が握っているのなら、「何やってんだよ!きもい」の一言で振り払えるのに、どう見てもこの指に力が入っているのは俺のほうだ。
 古泉は、ただ握られているという状態で、いわゆる被害者の立場のようだ。
 さて、どうやってこの場を取り繕う?幸いなことに、古泉には俺が目を覚ましているということに気がついていないようだ。
 では、いきなり手を外すのは意識しているようで、不自然だ。自然に寝返りでもうちながら、するりと放せばいいだろうか?
 さて、どうすればいい?
 見えない汗をだらだらかいて、俺はうまいこと古泉の指を外すだけのことをぐるぐると考えていた。
 だ、誰でもいい。この状態から助けてくれ!
 多分、自分がこの状況を作り出したのだろうが、古泉も古泉だ!なんだって大人しく握られている?男相手に手を握られたって気持ち悪いだけだろうに、俺を起こさないようにとの余計な計らいか?
 古泉〜!おまえがなんとかしろっ!
 俺はもう、頭の中がパニック状態に陥っていたので、ただ指を外すという行為さえもできなくて、古泉に下駄を預けたくて仕方がなかった。
 目が覚めてから十分ほど俺は身じろぎもせず、古泉の出方を待っていると、部活を終えたらしい奴らが笑いながら廊下を歩いていく声が聞こえてきた。
 …おし!古泉も何のリアクションも取らないようだし、今の声で目が覚めましたってフリをして起きるとしよう!
 床に寝転んでいたせいで身体も冷えてきていた俺は、とっとと行動をしようと指を外そうとした途端、ただ握られるばかりだった古泉の指がふいに強く俺の指を握り返していた。
 どうした?起こす気になったのか?
 だったら、俺は古泉の行動を見てから行動しようと、用意していた台詞をひとまず喉の奥に飲み込む。
「……っ」
 古泉の息を呑む音が聞こえた。
 どうした?ひょっとして俺に何か悪戯しようとしていないだろうな?
 何か不穏な動きをしようものなら、一発殴ろう。そんなことを考えながら身構えていたのだが、俺の手を握ったまま動こうとしない古泉に俺はちょっと飽きてきた。
 やはり、自分から起きるか…。
 とか思ってたら、古泉の気配が近づいてきたのを感じた。
 あ〜も〜、なんだよ。何かするなら早くしろよ!
 俺はまたもや動き出す機会を逃してしまって、古泉待ちの状態になってしまった。今度ばかりは、古泉も何か仕出かそうとしているようだ。
「……く、ん」
 囁くような声で俺を呼ぶ古泉。おいおい、そんな声じゃ寝ている奴は起きないだろうが。おまえは、人を起こす気があるのか?
 ここはもうちょい待ちが必要なようだと判断して、古泉の次のアクションを待つことにする。
 あ〜しかし、その声で耳元で囁くのやめろ。なんだか、くすぐったくて、背中がぞくぞくしやがる。これはいわゆる一つの拷問だ。
「……」
 古泉がよりいっそう俺に近づいてくる。おい、ちょっと近すぎないか?おまえは人を起こす時にまで、そんな顔を近づけるのか?
 そんなに近づくと、まるでキスでもしようって体勢だな、おい(笑)

 え〜と…、本当に、近くないか??
 おまえの息が、軽く俺の唇に当たってるのは気のせいか?

 (笑)とかつけてる場合じゃなかったか???

 何の冗談だと叫びあがりたかったが、俺の身体はどうしたことかぴくりとも動こうとしない。俺の身体よ、早く動け!古泉が何かしようとしているんだぞ?
 何、身構えてるんだ、俺!

「…く、ん。そろそろ起きてください」
 一瞬、くすりと古泉が笑ったような気配がしたその次に、俺はそう言われて身体を揺さぶられた。
 ここで起きないのは不自然だ。俺は、今目が覚めましたというふうに目をこすりながら、起きることにする。この時に、先ほどは動かすこともできないでいた指をするりと外して、俺は古泉の指からも、吐息からも離れることに成功した。
 だが、心臓はまだ何か跳ね上がった状態だ。古泉が顔をやたら近づけるのは、癖のようなものだとわかっていたにも関わらず、今回ばかりはまるでキスでもされるのではないかと恐慌状態に陥ってしまったのだ。
 なのに、俺をここまで混乱させておいて、古泉は何もなかったという顔をして俺を見下ろしている。
 くそう。俺一人で馬鹿みたいだ。
「起きましたか?さあ、もう下校しましょう」
「……あ、ああ」
 あくまでもいつもどおりの古泉の顔を見ていたら、俺はひゅっと力が抜けてしまった。
 力が抜けたついでに、俺の口から変な言葉が零れ落ちた。

「…なんだ」

 へ?何が、何だなんだ?俺よ。何に対して何だなんだ?
 見ろ、古泉もきょとんとした顔で、俺の「なんだ」をどう捉えていいのか判断につきかねているぞ。
 俺は、俺の言った言葉がどういう意味なのか考えるのを放棄することにした。
 あとは、疑問の表情を顔に浮かべている古泉が、俺に「なんだ」の意味を問わないまま、帰りの支度をしてくれるのを望むばかりだ。