桜の時


<冒頭>

「いえ、あの、突然で申し訳ないのだけれど、私と一緒に行ってほしい時代があるんです」
 行って欲しい場所ではなく、行ってほしい時代と言うのか、この人は。
 こうやって、何度も彼をあちらこちらに連れまわしているんだなと、少し嫉妬心を湧き上がらせたけれども、不安げにおずおずと言う小柄な上級生には、僕だって彼と同じように逆らうことなんてできない。
 この目の前の人物は、そういうものを身に付けた人種なのだ。
 彼女に逆らう人間なんて、きっとこの世にはいないのだろう。守られることが決まっている人間に対しては、誰もが守るべき者の役割を担う。
「ええ、わかりました。今すぐにですか?」
 僕がにっこりと微笑んで了承すれば、目に見えてほっとした様子の彼女の肩から力が抜けた。
「はい、今すぐにです。ごめんなさい、ありがとう」
 今はお昼休み時間なのだが、こんなに時間に呼び出したということは、きっと大して時間がかからない用事なのか、もしくは時間がかかったとしてもこの今の時間に戻ってくるような仕組みになっているのだろう。
 今日は、彼と約束があるのだ。放課後までかかっては困るので、僕はこれだけは確認した。
「すぐに戻ってこられますか?用事があるんですが」
「えっと、大丈夫だと思い…ます」
 何ともはっきりしない返答だったが、僕はともかく彼女の手を取った。僕だって一度はこの時間移動を経験してみたかったので、冷静な素振りを見せながらも心の中では不安とそれ以上の好奇心で、わくわくと気持ちを高揚させていたのだ。しかし、次にガンと頭を殴られたかのような衝撃を受けた時には、かなり彼女の言うことを聞いたのを後悔した。


<中盤>
「あの、別に。ご迷惑でしょうし、いいです」
「別に迷惑とかないから、子供が遠慮をするな」
 そりゃあ、あなたから見れば僕はほんの子供でしょうけれども、そういう意味での遠慮なんかではないんです。
 「うち」と言われて興味が湧かなかったと言えば嘘になる。でも、僕はあなたの今の「うち」を見せられるのがとても恐ろしいんです。玄関扉を開けて、あなたが同じ年頃の女性に「おかえりなさい」とか言われるのを見たくないんですよ。
 その女性が、ひょっとしたら涼宮さんかもしれないとか、全然見知らぬ女性かもしれないとか、そんなのはどっちでも同じだった。僕は、あなたの「家庭」を見たくない。僕には決してあなたに与えることのできない、あたり前の姿を。
 だけれど有無を言わせぬ彼の態度は僕の戸惑いなど気付きもしないようで、どんどんと先に歩いていってしまう。
「こっちだ」
 こっちと言われて、進んでいく風景に僕は見覚えがあった。
 建物は色々と様変わりをしていたけれど、この道は彼と歩いたことのある道だった。しかも、ついこの間だ。
 この街は僕らが住んでいる場所ではない。だけれど、先週末の集まりで探索に遠出しにきていた街だと思い出した。この街に彼の親御さんの知り合いが住んでいるらしく、子供の頃によく遊びに来ていたから、この辺りはそれなりに詳しいんだと教えてもらったばかりだったのだ。
 この道の先には河がある。そして河川敷には桜並木。
 僕がその場所を教えてもらったときには、季節柄何も咲いてはいなかったけれども、この世界の季節は春だ。異常気象や河が潰されたりなどしていなければ、きっと今は桜の季節。
「あの」
「なんだ?」
「今も変わらないとすれば、その先には桜並木があるんでしょうか?」
「そうだ、今は見ごろだからな。この時期は通り道にしているんだ、綺麗だぞ」
 見ていけよ、未来の桜、と彼がにっこりと笑って言ってくれたけれども、僕はゆるゆると首を横に振った。
「その道を通らないと、あなたの家には行けないのでしょうか」
「いや、どっちかというと遠回りなんだが、どうかしたか」
「あの、僕はまだ、あなたと桜を見たことがないんです」