古泉一樹と古泉一樹


 何か前兆はあっただろうかと、僕は今日一日のことを思い出す。主に涼宮さんとの会話を。
 どうだろうか? 今日は彼女は出会ってからずっと、朝比奈さんのコスプレ衣装の話しかしていなかった筈だ。彼も特に不自然な様子もなかったし、今日一日の授業中でも、彼女は平穏に過ごしていた筈だ。
 だから、どうしても僕は目の前で起きている現象の原因を思いつくことができなく、ただただ、呆然と目の前の『彼』を見つめるばかりだ。

「情けない顔ですね」

 目の前の『彼』がちょっと困ったように眉を寄せて、僕をそう評した。
 おかしい。どうして、この場で僕以外の人間が口を聞けるというのだろうか?
 いやいや、きっと僕は疲れているんだろう。幻聴、幻覚。うん、閉鎖空間の発生に備えていつも眠りが浅いから、きっと寝不足が見せている幻の類なんだ。
「……寝よう。そうだ、ぐっすり寝よう!」
「ちょ、ちょっと。すっかり無視ですか?」
「わ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ! また、喋った!」
 二度も声をかけられて、僕は今度は耐え切れなくなり叫び声を上げてしまった。今日聞いたコンピ研の連中よりも激しい叫び声を。

 だって、目の前の鏡の中の『僕』が、勝手に動いて、勝手に語りかけてきたのだ!

 これを平然と受け入れられる余裕は僕にはなかった。隣に彼がいれば、色々と説明をつけて最後には「涼宮さんの力ですね」なんて納得して終わらせることができるけれども、今は一人なわけで、取り繕おうと冷静になろうとする意識はこれっぽちもなく、僕はパニックという感情に身を任せる。
 というより、怖い。これは怖い。僕は子供の頃に見た子供雑誌の夏休みお化け特集号の記事を思い出したりしていた。
 天窓のある浴室でふと上を見上げると、自分と同じ顔をした人間がにたりと笑っていたという記事を。あれは、すごくイラストが怖くて、それ以降、僕は髪を洗っている時の背中が気になって仕方が無い人間になってしまっていた。
 僕は鏡の中の僕が何か語りかけているのを聞きもせずに、ともかく浴室を飛び出した。恐怖で足ががくがくと震えていて、裸のままでその場にへたりと座り込んでしまった。
「な、なんなんだ? い、今のは!」
 ああ、もう今日は一体どんな厄日だ!
 彼にうっかりキスしたり、鏡の中の自分が話しかけてくるなんて幻想を見たり!
「…彼とのキスを厄日呼ばわりするのは、感心できませんね」
「ぎゃああっ!」
 わ、忘れていた。この部屋には姿見が一つ置いてあることを。
 僕はその目の前で座り込んでいたのだ。恐る恐る鏡を覗き込めば、裸の僕がやっぱり困ったように僕を見ていた。
「な、な、な、な、な、ん、なんですか!?」
 どもりながらも、なんとか鏡の中の僕に返事をすることができた。あ、もう一人の自分に出会って話を交わしたりすると、命を取られるとかなかったですっけ? し、しまった。
「えっと、ボクを認識してくれたのは嬉しいのですが、お願いですから服を着ていただけないでしょうか? どうやらこの世界では、そちらの『僕』が主体性を持っているようでして、あなたが裸でいるとボクも裸になってしまうようなんですよ」
 パニックを起こしている僕とは違って、鏡の中の『ボク』はいたって冷静だ。その『ボク』の話し方になんとか平静さを取り戻すことができ、『ボク』に促されるまま濡れた身体を簡単に拭いて、Tシャツと短パンに着替えた。